◇
「兄さん、早くこんな女と手を切ってください」
式という和服の少女に、鮮花は真顔でそう言った。
ただ眺めあっているだけのこの二人の間には、どうとも語れない緊張感があって、わたしは気が気でいられない。なんだか互いの喉元に包丁をあてて、隙があるなら一気に引ききろうとしているよう。
空気が張り詰める雰囲気に、わたしは臆病になってしまう。こうなるとせめて騒ぎになりませんように、と祈るしかなかった。
幸い二人はそれきり言葉もなく、きれいな橙色の紬を着こなした少女は見惚れるほど流麗な足取りで去っていった。
わたしはその背中を瞳で追い続ける。
式という子は、話し方が男のひとのようだった。そのせいか年齢が計れなかったけれど、もしかするとわたしと同い年なのかもしれない。
りょうぎ、という名字は、たぶんあの両儀じゃないだろうか。それならあの高級な紬も納得がいく。もともと紬は街着だけれど、あの子のは細かい部分の折り返しに今風の工夫がみられた。両儀の子なら自分専門の織物職人を抱えていてもおかしくない。
「―――綺麗なひとでしたね」
わたしの独白に、鮮花はまあね、と答える。相手を嫌っていようと正直に答える鮮花は偉いと思う。
「でも、それと同じぐらいに恐いひと。――わたし、あのひと嫌いです」
鮮花が驚いている。彼女の驚きはもっともだ。わたしだってこの気持ちに困惑している。たぶん――生まれて初めて、他人に反発心をもったから。
「意外ね。わたし、藤乃は誰も憎まない娘だと決めつけていたのに。わたしの認識もまだ甘いなあ」
「憎い――――?」
……嫌いは憎いに繋がるんだ。わたし、そこまで大それた事は思っていない。ただ、あの人とは相容れられないと感じただけなのに。
わたしは瞼を閉じてみる。
式。不吉すぎる漆黒の髪。不吉すぎる|白純《しらずみ》の肌。不吉すぎる底無しの眼。
あの人はわたしを見ていた。
わたしもあの人を見てみた。
だからお互いの背中にある風景を見合ってしまった。
あの人にあるのは血だけ。自分から人を殺そうとする。自分から誰かを傷つけようとする。……あの人は殺人鬼だ。
けれどわたしは違う。違うと思う。わたしは一度も、自分からやろうと思った事がないのだから。
視界が閉ざされた|眩病《くらやみ》のなか、わたしは何度もそう訴えかける。けれどあの人の姿は消えてくれない。たった一度、言葉も交わしていないというのに、彼女の形はこの眼球に焼きついてしまったんだ。
「ごめんね、藤乃。せっかくの休みが台無しになって」
鮮花の声に瞼を開ける。
わたしは練習通りに微笑む。
「いいんです。今日はあまり乗り気ではなかったから」
「顔色悪いものね、藤乃。もとから白いんで判りづらいけど」
乗り気でないのは、本当は別の理由。けれど鮮花の言葉にわたしは頷いた。
……体の不調は反応が少し遅い事で判っていたけど、顔に出るぐらい悪いとは気がつかなかった。
「仕方ないな。幹也にはわたしから頼んでみるから今日はもう帰ろうか?」
鮮花はわたしの体を心配してくれる。
ありがとう、とわたしは答えた。
「けど、お兄さんへの伝言はあれでいいんですか?」
「いいの。あの伝言はこれで何度目か忘れてしまったぐらいだから、幹也も慣れているでしょう。
実を言うとね、これって呪いなの。飽きることなく繰り返された言葉は、現実をそちら寄りに歪めてしまえる。ほんと、少女らしい一途な呪い。愚かで、どこか哀しいわ」
どこまで本気か判らないけど、彼女はそんな事を真面目に説明してくれた。
彼女の突拍子のなさには慣れている。わたしは静かに鮮花の透き通った美声を聞くことにした。
……学園の中ではつねに首席、全国模試でも十位以内に入る黒桐鮮花は、ちょっとヘンで紳士なところがある。
鮮花は礼園女学園でのわたしの友人の一人。わたしも彼女も高校から学園に編入した。小学校からのエスカレーター方式である礼園では、わたし達のように高校から入ってくる者は珍しい。わたしと彼女はそういう縁で知りあった。
休日はたまに二人で外出したりもする。今日はわたしの我が侭で、彼女のお兄さんを通して人を捜してもらう筈だったのだ。
わたしは地元の中学に通っていて、一年生の時の総体で他校の先輩に声をかけられたことがある。
最近辛い事が起きて沈んでいたわたしは、その先輩を思い出す事で救われた。
それを鮮花に打ち明けると、なら本人を捜し出そう、と彼女は言った。彼女のお兄さんも地元の中学で、びっくりするぐらい交友関係が広いという。鮮花のお兄さんはわたし達ぐらいの年代の人捜しは得意中の得意なのだそうだ。
……本当はそれほど会いたかったわけではないのだけれど、鮮花の勢いに断りきれず、わたしは先輩を捜す事となった。今日はその相談の為にお兄さんを待っていたのだが、あいにく来れないという。
……正直、それはそれでほっとした。
乗り気ではないのは、そう。わたしは、彼と二日前に偶然出会ってしまったんだ。
わたしはその時、三年前に言えなかった事を言えた。
目的はもう達してしまったから、捜すこともしなくていい。鮮花のお兄さんがやってこれないのは、かみさまがちゃんと分かってくれているからかもしれない。
「出ようか。さすがに紅茶二杯で一時間は居づらいや」
鮮花は立ち上がる。
お兄さんに会えず気を落としているだろうに、さらりと席を立つ自然さはとても優雅で惚れ惚れする。
彼女は時々、すごく男前だ。さっぱりした性格と口調の為だろう、丁寧な言葉遣いが今みたいに抜け落ちて、男の人みたいに格好よくなる。
けれどそれは猫を被っているんじゃなくて、そういう部分も彼女の地。わたしはこの友人を、一番好ましく思う。
―――だから、会うのはこれで最後にしよう。
「鮮花、先に寮に帰っていて。わたしは今晩も実家に泊まりますから」
「そう? いいけど、あんまり外泊が多いとシスターに睨まれるわよ。何事もほどほどにね」
ひらひらと手をふって鮮花も昏い喫茶店から去っていった。
わたしはひとりになって、ふと店の看板に視線を送る。
アーネンエルベ。ドイツ語で遺産という意味だった。
◇
鮮花と別れて、当てもなく歩き始めた。
実家に帰る、というのは嘘。
わたしにはもう帰るところはない。二日前のあの夜から学校にも行っていない。
たぶん昨日の無断欠席で父のもとに連絡がいっているだろう。
家に帰れば何をしていたかと問い詰められる。わたしは嘘をつくのが苦手だから、何もかも喋ってしまうに違いない。そうなれば――父はきっとわたしを軽蔑する。
わたしは母さんの連れ子だ。父が必要としていたのは母と家の土地だけで、わたしは昔からおまけだった。だからこれ以上嫌われないように必死だったんだ。
母のような貞淑な女に、父が誇れるような優等生に、誰もが不審に思わないような普通の子に――――――――ずっと、なりたかった。
誰かの為なんかではなく、わたし自身そのユメに焦がれて、守られてきた。