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第36页


 言って、橙子さんは自分の名刺の裏にさらさらと超能力の専門家、という人の住所を書いていく。
「あれ、橙子さんは詳しくないんですか?」
「あったりまえだ。魔術は学問だぞ。あんな理論も歴史もない先天的な反則なんかに付き合えるか。私ね、ああゆう選ばれた者だけの力ってのが一番嫌いなの」
 最後だけ眼鏡をかけた時の口鯛になるあたり、本当に嫌いなんだろう。僕はその名刺を受け取ると、最後まで剣呑にしていた式に話しかける。
「式。それじゃ行ってくるけど、無茶はしないようにね」
「無茶はおまえだ。罵迦は死ななきゃ治らないって話、本当なんだな」
 そうやって式は悪態をつくけれど、その後に努力してみる、と小さく呟いてくれた。



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 七月二十四日。
 黒桐幹也が浅上藤乃の調査を始めてから一日が経過した。
 その間に起こった出来事はあまり特筆すべき物ではない。
 例えば今日の夕方から明日の早朝にかけて大規模な台風が上陸するとか、乗用車を無免許で運転していた十七歳の青年が道を外れて事故を起こしたぐらいである。
 あくまで、表向きは。
 両儀式は電灯のない蒼崎橙子の事務所で、ただぼんやりと外を眺めていた。
 夏の空模様は一目で見飽きてしまうほど広い。雲一つない蒼天に、ただ|燦々《さんさん》と輝く太陽がある。
 この、青い絵の具だけで描けるような大空が、夜になれば吹き|荒《すさ》ぶ暗雲に呑み込まれるのなんて、それこそ|質《たち》の悪いゆめのようだ。
 かーん、かーん、という音が、耳鳴りのように響く。
 事務所は製鉄工場の隣にある。窓際にいる式には工場から響く機械音が絶え間なく届いていた。
 式は無言で橙子を一瞥する。
 橙子は眼鏡をかけたまま電話をしていた。
「ええ、そうです。その事故の事なんです。……ああ、やっぱり接触事故を起こす前に死亡していた、と。死因は絞殺ですか? 違うことはないでしょう。首がねじ切られているのなら、それは絞殺ですわ。強さの加減はまた別の問題です。
 そちらの見解はどうなってます? やはり接触事故扱いですか。そうでしょうね、車の中には被害者しかいなかった。走る密室なんて、どんな名探偵でも解決できませんもの。いえ、これだけ教えていただければ十分です。
―――どうもすみません。このお礼は必ずいたしますわ、|秋巳《あきみ》刑事」
 橙子の会話は丁寧で、この上なく優しい女性のものだった。彼女を知る者が聞けば背筋を震わせかねない。
 電話が終わると橙子は眼鏡を微かにずらした。およそ温かい感情が断絶された眼差しがそこにある。
「式、七人目がでた。これは二年前の殺人鬼どころじゃないぞ」
 式は名残惜しそうに窓から離れた。
 彼女は、この空が暗雲に侵食される瞬間を見ようと思っていたのに。
「ほらみろ。今度こそ無関係の殺しだろ」
「そのようだね。湊啓太も事故を起こした高木彰一など知らないそうだ。これは彼女の復讐とはまったく関係のない余分な殺人だ」
 白い紬を着た式は、ぎり、と奥歯を咬んだ。そこにあるのは怒り。彼女は赤い革の上着を着物の上から強引に羽織る。
「そう。なら、もう待ってられない。トウコ、あいつの居場所わかる?」
「さあな。潜伏場所なら二、三心当たりがある。捜すというのなら、手当たり次第に行ってみるしかないぞ」
 橙子は机から数枚のカードを取り出すと、式に放り投げる。
「……なんだこれ。浅上グループの身分証明書? 誰、この|荒耶《あらや》|宗蓮《そうれん》って」
 三枚のカードは、全て浅上建設が関わっている工事中の施設への入場許可証だ。電磁ロックになっているのか、カードの端には磁気判別のスリットがある。
「その偽名は私の知人だ。適当な名前が思いつかなくてね、依頼人に身分証明書を作らせる時に使ったんだ。ま、そんな事はどうでもいい。浅上藤乃が潜伏しているとしたらそのうちのどれかだろう。面倒だから黒桐が帰ってくる前にやってしまえ」
 式は橙子を睨む。普段うつろな式の目は、こうなるとナイフのように鋭い。
 式はほんの数秒だけ橙子に無言の抗議を向けたが、何も言わずに踵を返した。
 結局は、彼女も橙子と同じ意見だったからである。
 式は別段急ぐ風でもなく、いつも通りの流麗な足取りで事務所から消えていった。
 ひとりになって橙子は窓の外へと視線を移す。
「黒桐は間に合わなかったか。
 さて。嵐が来るのが先か、嵐が起こるのが先か。式ひとりでは返り討ちにあうかもしれないぞ、両儀」
 誰にでもなく、魔術師は呟いた。

          ◇

 正午を過ぎたあたりで、空模様が段々と変わっていった。
 あれだけ青かった空は、今ではもう鉛のような灰色に覆われつつある。
 風も吹いてきた。
 道を行くひとたちは口々に台風が来ている、とはやしたてる。
「くっ――――」
 わたしは熱くなったまま戻らないお腹を押さえながら歩く。
 台風の話なんて、わたしは知らなかった。ずっと人捜しに夢中だったからだろう。
 街は慌ただしくはあるものの、人の姿は段々と少なくなっていく。これでは今夜は出来そうにない。
 今晩は帰ろう、と思った。
 何時間もかけて、徒歩で港に着いた。
 空はとうに暗い。まだ夏の夜の七時なのに。嵐の到来は、季節がもつ本来の時間さえ狂わせるんだ。
 一日ごとに反応が遅れる体を動かして、わたしは橋の入り口に辿り着いた。
 この橋は、父がもっとも心を砕いている建物だ。
 こちらの港と対岸の港をつなぐ、大きくて立派な橋。
 車道は四車線もあって、橋の下にはクジラに張りつくコバンザメのように通路が作られている。
 地下はショッピングモールになっている。海の上に浮いているのに道路の下にあるから、地下と呼ぶしかない。
 地上の橋には警備員がいて、中には入れない。
 けれど地下のモールへの入り口は無人で、カードさえあれば中に入ることができる。
 わたしは家から持ち出した数枚のカードから一枚を取り出して、その入り口を開けた。
 ……中は暗い。もう大体の内装は終わっているけれど、電気が通っていないからだ。
 無人のモールは終電間近の駅みたいだ。
 どこまでも真四角に伸びる通路。
 通路の左右には色々なお店がある。
 五百メートルも歩くと、モールは武骨な鉄筋が林のように並ぶ駐車場に変わった。
 ここはまだ工事中で、とにかく散らかっている。
 壁もまだ未完成で、壁にあてられた雨避けのビニールがばたばたと鳴っていた。
 ――そろそろ八時になるのだろうか。
 風が強い。びゅうびゅう吹き荒ぶ音と、海面に打ち付ける音に耳を塞ぎたくなる。
 壁に当たる雨の音は、映画で観た機関銃より激しく火花を散らしている。
「雨―――」
 あの日も雨だった。
 初めての殺人のあと、温かい雨で体の穢れを落とした。
 その後に、あのひとに会えた。
 中学時代にたった一度だけ会って、話しただけの遠いひとに。
 ……ああ、おぼえてる。
 遠くの地平線が燃えているみたいな夕暮れどき。
 お祭りだった総体が終わったあと、ひとりグランドに残っていたわたしに話しかけてきた他校の先輩を。