万书网 > 历史军事 > 空之境界 > 第56页

第56页


「オレ達に何か用か」
 じりじりと近寄りながら奴らは言う。すでに逃がさないように囲んでいるあたり、三人の心は一つのようだ。
 ゲスめ、と罵りながらも、俺は何もできない。殴られた手足は痣だらけで力が入ってくれないのだ。
 あの着物の少女が、こんなニセモノみたいなガキに汚されるのは我慢ならない。いや―――だが、アレがこんな連中に汚されるなんて事があるのだろうか?
「何か用かって訊いてんのよ。耳ないの、あんた?」
 連中のひとりが近付きながら怒鳴る。
 彼女は答えず、無造作に片手を差し出した。
 ……そこからの出来事は、本当に魔法みたいだった。
 少女の細い腕が、取り囲む若者の腕を取る。軽く引き寄せる。体重がなくなったかのように、男はくるんと縦に回って、地面に頭から倒れこんだ。
 柔道でいう所の内股というヤツだろうか。一連の行為はとても迅いのに、そのあまりの自然さで逆にスローモーションのように見えた。
 残る二人が着物の少女に襲いかかる。その一人の胸元に掌を押しつけると、それだけで相手は地面に崩れ落ちた。人間一人を気絶させる為にこっちはあれだけの暴力を振るったというのに、少女は必要最小限の動きだけで二人もの人間の意識を落としてしまった。時間にしたって五秒もかかっていないだろう。
 その事実に俺が戦慄したように、残された一人もこの相手が普通ではないと理解したようだ。
 うわあ、と声をたてて逃げ出す。
 背を向けて走りだすその頭を、少女は蹴った。鮮やかな回し蹴りは、音さえ立てずに最後の一人を昏倒させてしまった。
「ちっ、いしあたまな石頭」
 舌打ちしながら、少女は乱れた着物の裾をなおす。
 俺は言葉もなく、ただその姿を眺めていた。
 ―――街の灯りも、月の光さえも届かないこのゴミ溜めの中で。彼女の頭上にだけ、銀色の光芒が降り注いでいるみたいだった。
「おい、おまえ」
 少女がこちらに振り向く。俺は何か言おうとしたのだが、口の中が傷だらけで言葉をひっこめてしまった。
 少女は革ジャンのポケットに手をいれると小さな鍵を取り出して、こちらに投げてよこした。地面に座り込む俺の前に、見覚えのある鍵が落ちる。
「落としもの。おまえのだろ」
 声は、脳の奥のほうで響いた。
 ……鍵。ああ、さっき殴られた時に落としたのか。
 もう、今になってはどうでもいい家の鍵。これを届ける為にこの女はやってきたのか。
 と、少女はそれで用は済んだとばかりに背を向けた。
 さよならの言葉も、いたわりの言葉もない。
 やってきた時と同じように、散歩めいた足取りで去っていく。……俺の事などどうでもいいというように。
「――――ま」
 て、と手が動く。
 何を引き留める? どうして引き止めようとする? 俺だって―――臙条巴だって、あんなキチガイみたいな女はどうでもいい。
 けど―――けど、今こうして置いていかれるのはたまらなかった。誰にでもいいから、捨てられたくなかった。自分には何の価値もないのだという、本当に偽物にすぎないのだ、という衝動に耐えられなかった。
「ちょっと待て、おまえ!」
 叫んで、立ち上がる。……いや、立ち上がろうとしたが、うまく立てなかった。体の節々がうずいて、壁に手をかけてようやく中腰の姿勢がとれるだけだ。
 着物の少女は立ち止まると、ぞっとするほど冷たい視線で振り向いた。
「なんだ。ほかに落としものはないぞ」
 平然と言う。
 その足元に五人もの人間が倒れこんでいるというのに、こいつは何も感じていない。
「おい、まさかこのままにして行く気じゃないだろうな」
 息も絶え絶えに言うと、彼女はようやく周囲の惨状を見渡した。
 倒れている連中の中には、俺が傷つけて血を流している二人もいる。不細工な暴力の結果だ。
 ふぅん、と少女は俺を上目遣いで見た。
「安心しろ、そっちのヤツの目はダメだけど、この程度じゃ死なないよ。初めに目が覚めたヤツがどうにかするさ。それでも今すぐ助けがいるのか?」
 女の物としか思えない細く高い声で、男そのものの台詞を言う。
 俺はそうだ、と頷いた。
「そっか。でもこういう場合、どっちを呼べばいいのかな。警察? それとも病院?」
 本気で、どこかズレた事を聞いてくる。
 俺は病院しか考え付かなかったが、これをあくまで正当防衛として考えるのなら警察を呼んだほうが早いかもしれない。だが―――
「―――警察は、ダメだ」
 なぜ? と女の視線が言う。
 何故だろう。俺は、決して口にしてはいけない秘密を、切り札を差し出すような決意で告げた。
「俺は、人を殺したんだ」
 わずか。時間が、止まった気がした。
 少女は興味を持ったのか近寄ってくると、必死に壁にもたれかかっている俺をしげしげと観察しだした。
「そうは、見えないけどな」
 訝しげに言う。けれど難しそうに唇に手をあてて悩みこんでいるあたり、彼女にも確証はなさそうだった。
 俺は熱にうかされたように、自虐的な告白を続ける。
「本当だぜ。ついさっき殺してきた。包丁でハラん中ぐちゃぐちゃにして、首かっ切ってやったんだ。アレで生きてるはずがあるもんか。……へへ、今頃うちじゃポリ公どもが集まって俺を血眼になって捜してる事だろうよ。そうだ、夜が明ければ俺は一躍有名人ってワケさ――!」
 気がつけば、俺は自嘲ぎみに笑っていた。くくく、という自分の声を聞く。……どうしてか、それは泣いているような声だった。
「そう。ならホントウなんだろうな。じゃあ病院にも連絡はやめておけ。そのまま鉄格子に直行する事になるぞ。……ああ、服は返り血を浴びたんで脱ぎ捨てたのか。てっきりそういうのが流行なのかと思った」
 冷たい手が、俺の胸をなぞる。
「――――な」
 息を呑んだ。この女の言う通り、着ていた服は血に濡れてしまったから脱いだのだ。ズボンだけはそのままで、裸のままブルゾンを羽織って逃げてきた。
 ……わかっている。この女は俺が殺人者だとわかっているのに、どこにも驚いている素振りがない。それが―――逆に、俺を不安にさせた。
「おまえ恐くないのか。俺は人を殺してきたんだぞ。一人殺すのも二人殺すのも一緒だ。事情を知ったおまえを、このまま行かせると思うのか?」
「―――一人殺すのと二人殺すのは違うよ」
 不愉快そうに目を細めて、着物の少女はいっそう顔を近付けてきた。
 ……俺の方が頭一つ分高いというのに、下から覗き込む彼女に威圧されてしまう。
 黒い眼に見据えられて、俺はごくりと喉を鳴らした
 息を呑むのは、威圧されてのものではない。
 ただ、見惚れていた。

 俺は今まで、人間というものに感じ入った事がなかった。十七年間生きてきて、ここまで何かに魅了される事はなかった。ここまで我を忘れて感動する事はなかった。

―――そう、ここまで。
   人間を、美しいと感じた事はなかったんだ。

「本当に―――俺は人殺しなんだ」
 そんな事しか言えない。
 少女は顔を伏せると、くすり、と笑った。
「知ってる。オレだってそうだから」
 布のすれる音がする。