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第66页


「あれは式ですよ。本人は滅多に料理はしないんですけど、和風のご飯ならすごい腕前なんです、なぜか」
 へえ、と橙子さんは意外そうに目をしばたたく。その意見には僕も同感なのだが、本当に式は板前さんも真っ青なぐらい料理上手なのだ。両儀の家は名家なので、式はもともと舌が肥えている。本人はなんでも食べるのだが、それは自分が作っていないからどんな味でも許せる、というものらしい。式が料理する、という事は本人が納得するレベルの料理をするという事で、結果として調理の腕前が上がるのは当然といえば当然なのだ。
「―――驚いた、式が私に何かしてくれるなんて。でもまあ、そっか。刃物の扱いは慣れてるものね、あの子。……仕方ない。机の上に錠剤の入った壜があるから、全部持ってきてくれない?」
 食事にありつけないと知って、橙子さんはまたベッドに横になる。
 橙子さんの机には三つの薬壜があって、それを手に取る時―――一枚の写真が目に入った。
 外国の風景だろうか。石造りの道と、映画にでも出てきそうな時計塔。今日のように今にも雪が降りだしそうな曇った空の下、三人の人物が並んでいる。
 二人の男性に、一人の少女。
 男達はどちらも長身で、一人は日本人のようだった。もう一人は地元の人間らしく風景に溶け込んでいて、違和感がない。いや―――日本人の男性があまりにも強すぎるのだ。昏い表情で佇む日本人の存在感は、強烈すぎて風景から浮き彫りにされている。……胸が苦しくなるほどの重苦しさ。それを、僕は以前間近に感じた事がある。
 あれは、そう。忘れようのないあの時の感覚ではなかったろうか。それを確かめるために写真を凝視すると、それ以上に印象的なモノを見てしまった。
 黒い和服のようなコートを着た日本人の男性と、赤いコ―トを着た金髪碧眼の美男子。
 その二人の間に少女はいた。
 黒い、日本人の男が着ているコ―トが薄く見えるほどの黒檀の黒髪。腰より下まで伸びている髪は、長髪というより何か別の、美しすぎる飾り物のようだ。
 まだ十代のあどけなさを残した静かな面立ちは、
一言でいうと|玲瓏《れいろう》だろうか。少女は、写真越しにでも魂を抜き取られそうなほど、華麗すぎた。―――日陰の花めいた美しさをもつ日本の幽霊と、外国の童話に出てくる妖精が融け合えるとしたら、こんな人間になるんじゃないだろうかと思うほどに。
「橙子さん、この写真――――」
 知らず、僕は呟いていた。
 横になった橙子さんは眼鏡を外しながら答えた。
「うん? ああ、それは昔の知り合い達だよ。顔を思い出せなくなったんでね、アルバムからひっばりだしたんだ。―――ロンドンにいた頃の、ただ一度の不覚というヤツさ」
 眼鏡を外した橙子さんは、その口調が豹変する。
 以前、友人である両儀式はどこか曖昧な二重人格者だったが、蒼崎橙子という人は本当に人格が力チリ、とスイッチが入ったように切り替わる。本人に言わせると人格ではなく性格を切り替えているだけ、という話なのだが、僕からみればどちらも大差ない問題だ。
 眼鏡を外した橙子さんは、一言でいうと冷たい人間だ。
 冷たい言動、冷たい思想、冷たい理論―――それらで象られた人間像が、眼鏡を外した橙子さんなのだ。
「さて、何年前の話だったかな。妹が高校にあがろうとしていた頃だから、かれこれ八年以上前か。人の顔を覚えるのは得意なんだか、思い出すのはどうも苦手だ。無駄な行為だから、カタチよく整理する気にもなれない」
 橙子さんは横になったまま、物思いにふけるように喋っている。……橙子さんが自分の昔話を口にするなんて、ちょっと考えられない。風邪というものを引いたのは初めてだ、というのは本当みたいだ。こういうのを鬼のかくらんと言うのだろう。
「ロンドンって――その、イギリスの首都ですよね」
 三つの薬壜を橙子さんの枕元に置いて、近くの椅子を引っ張りだしてベッド脇に座る。橙子さんは薬壜から錠剤を取り出して呑み込むと、やっぱり横になったまま話しだした。
「そうだよ。当時、祖父の元から飛び出してしまった私には住みかがなかった。一から工房を作れるほど技術も資金もなかった新米魔術師は、大きな組織の下に入るしかないと打算したのさ。大学と一緒だ。機構自体は古び、磨耗し、衰退しているが施設そのものに罪はない。大英博物館の裏側には古今東西の研究部門があった。流石は現在の魔術師達を二分する協会だ。アレは、私が望む以上の秘蔵量だった」
 熱に浮かされたように独りごちる橙子さんの顔色は青くなる一方だ。
 さっきのクスリは薬ではなく毒だったのではないか、と危惧する僕を、橙子さんは毒じゃないぞ、と言って止めた。
「いい機会だからもう少し話をさせろ。
 ……まだ二十歳そこらの小娘が学院に留学するのは難しい。なおかつアオザキは異端者扱いだったからな。入る為に私はルーン魔術を専攻する事にした。当時、ルーンは人気もなく学ぶものが少なかったからね。協会側も研究者は欲しかったんだ。そうしてあちらでルーン文字を安定させるのに二年、トゥーレ協会にあるオリジナルに近付けるのにもう数年。それでようやく自分の研究室を持てた頃だったか。
 目的である人形作りに没頭していたある日、私はその男に出会った。もとは台密の僧だという変わった遍歴の持ち主で、地獄のような男だった。強い意志、鍛え上げられた自己の殻は、一途なまでに燃え盛る業火に似ていた。
 ……地獄のような、というのはね、黒桐。もし地獄という概念が意志をもって人間としてのカタチを持ったとしたら、という仮定だ。それほどにヤツは他人を受け入れず、ただその苦しみだけを吸い続けていた。魔術師としての能力は穴だらけだったが、ヤツの自己の強さは何音をも凌駕していた。
 ―――私は、そんな不器用なヤツが気に入っていた」
 自ら語る思い出の男性を睨むように、橙子さんは目を細める、それは憎しみとも哀れみともとれる、難解な眼差しだった。
 話の内容もよく解らず、そうですか、と僕は相づちをうつ。病人には逆らわないのが看病のコツだと思う。
「はあ。橙子さんの人形作りは、外国仕込みなんですね」
 明らかに場違いな質問に、そうだよ、と橙子さんは真面目に頷いた。……ダメだ、冗談も通じない。
 橙子さんの独り言を聞くのはいいのだけれど、その意味が解らないのは聞き手として申し訳ない。だからこういう話は式か鮮花にしてほしいのだが、熱に浮かされた橙子さんはさらに話の難解さのギアを上げてしまったようだ。

「私が人形作りに取りつかれたのはね、完璧なヒトの雛型を通して「 」に到達する為だった。
 ヤツは反対に肉体ではなく魂、ようするに測定できない箱の中の猫のような「有る」が「無い」ものを通して「 」に到達しようとしていた。肉体は明確な形があるが故に|透《と》けこめない。だが形のない魂は透けている。どこぞの心理学者が唱えた集合無意識に似ているな。その連鎖を辿っていけば中心があると考えたのだろう。
 ああ、ようするにだ。私もヤツも原作を求めていたんだ。大元になる|一《いち》、人間のオリジナルとでもいえばいいのかな。今の人間は分かれすぎて、すでに測定不可能なほどの属性と系統になってしまった。だから大元に到達できない。属性と系統。言い換えれば宿命か。数式と同じで、そういう能力と役割を与えられて、そうした結果を出す人生。そうした結果しか出せない人生。当たり前だ、|遺伝子《せっけいず》にはそういった能力しか付与されていないんだから。それを宿命だというのなら宿命だろうさ。