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第78页


「この突き当たりが俺の家だ」
 歩きだす。あいかわらず静かなマンションで、部屋から人の声はするが廊下で出会う事はまずない。
 突き当たりの部屋の前に着いて、俺は止まった。
――――ホんトウに、入ルのか。
 腕が動かない。目が、ぼやけてしまって、ドアノブが掴めない。いや、そうだ、その前にチャイムを鳴らさないと。
 たとえ家の鍵を持っていても、チャイムを鳴らしてから入らないと母親が怯えてしまう。一度借金の取り立てにきた野郎がいきなり家に押し入った事があって、それ以来チャイムを鳴らして入らないとお袋は怯えてしまうんだっけ。
 指がインターホンのボタンに伸びる。
 それを両儀の指が止めた。
「チャイムはいい。中に入ろう、臙条」
「―――何言ってるんだ。勝手に入るつもりかよ」
「勝手も何も、もとからここはおまえの部屋だろ。それにスイッチは入れないほうがいい。カラクリがわからなくなる。カギ持ってるだろ。かせよ」
 両儀は俺から家の鍵を受け取ると、がちゃりと回した。
 ドアが開く。……中からはテレビの音。
 誰か、いる。
 感情のこもっていないカタチだけの家族の話し声がする。
 今の生活を母や世間のせいだとグチる親父の声。
 それを黙って聞き流して、ただ頷くだけの母親の声。
「――――――」
 それは、間違いなく臙条巴の日常だ。
 両儀は声もあげずに中に入る。俺も――――その後に続いた。
 廊下を抜けて、居間に通じるドアを開ける。
 立派な部屋には不釣り合いな安物のテーブルと小型のテレビ。ろくに掃除もされていないゴミだらけの汚い部屋。
 そこにいるのは、間違いなく俺の両親だった。

“おい。巴はまだ帰ってこないのか。もう八時だぞ、仕事が終わって一時間も経っている。ったく、何を遊び歩いているんだ、あいつは!”
“さあ、どうでしょうねぇ”
“あいつが親を親とも思っていないのは、おまえが甘やかすからだ。くそ、金なんて返さなくていいものを返して、オレにビタ一文もまわしゃしねえ。誰のおかげで暮らしていけると思っているんだ、あいつは!”
“さあ、どうでしょうねぇ”

―――なんだ。
 なんだ、これは。

 両親がいる。小心者のくせに自分を大物なんだと疑わない親父に、それに合わせるだけの母親。
 殺したハズの二人が、変わらない日常で生きている。
 いや、そうじゃない。
 こいつら、どうして入ってきた俺達に振り向きもしないんだ――――!?
「臙条が帰ってくるのはいつも何時なんだ?」
 耳元で両儀が訊いてくる。俺は九時頃だと答えた。
「あと一時間か。それまで待っていよう」
「なんだよコレ。いつたいどうなってるんだ、両儀ッ!」
 あまりに平然とした態度にハラを立てて詰め寄ると、両儀は面倒くさそうに俺を一瞥する。
「チャイムもノックもしなかったから、お客さんに対応しないだけだろ。決められたパターン以外の行動に対応する為のスイッチを、オレ達は押さなかった。だから客は来ていないってコトで、臙条の両親はいつも通りの生活をしているだけ」
 言って、両儀は堂々と居間を横断して隣の部屋へ移動した。……そこは俺の部屋だ。
 俺は散々ためらった後、両親から目を背けながら自分の部屋へと入っていった。
 そのまま、ただ立ち尽くす。両儀も壁にもたれ掛かってぼんやりと待っていた。
 電灯の点いていない部屋の中、俺と両儀はただ待ち続けた。
 何を?
 ハッ、決まってる。そんなの、|日常《イツモ》通りに帰ってくる臙条巴しかいないじゃないか。
 俺は、かつて殺人を犯した場所で、俺自身を待ち続けた。
 それはおかしな時間だった。
 永遠にも一瞬にも感じられる責め苦。現実感というものが蕩けてしまって、時計が逆に回っている。
 果たして、俺は帰ってきた。
 やっと帰ってきてくれた。もう帰ってきてしまった。
 二つの感情が入り交じる中、巴は両親とは何も話さず、無言で部屋の中に入ってきた。
 クセのある赤毛。華奢な体。中学の頃まで女扱いされた細い顔つき。世を拗ねた目つきの巴は、一度だけ深いため息をついた。
 ―――深呼吸に似ている。
 まるでそうする事で今日一日の辛かった事が帳消しになると信じるような、それは、精一杯のささやかな儀式だった。
 その巴さえ、この巴に気がつかない。
 俺と両儀は幽霊になったみたいだ。
 やがて、巴は布団を敷いて眠りにつく。
 しばらくの時間。俺は、この先の展開を知っているクセに何も考えられず、臙条巴を見つめていた。
 居間から口論の声が聞こえた。
 親父の声と、初めて聞く母の感情的な声。
 金切り声をあげて母親は親父にくってかかっている。
 それは吠えまくる犬みたいで、人間じゃないみたいだった。
 エタイのシレナイ金星人だったのかもしれない。……女のヒステリーってのはジャンキーみたいに暴れだすものだと初めて知った。
 なんて間の抜けた、どうでもいい真実の体験だろ
 ごん、というイヤな音。
 母らしき人間の激しい息遣いが、襖越しに聞こえてくる。
 がち、がち、がち、がち。
「……やめろ」
 呟いても、何も変わらない。
 だって、これは。
 がち、がち、がち、がち。
 襖が開く。巴が目を覚ます。立ち尽くす母親の手には、大きな包丁が握られている。
“巴、死んで”
 何かが切れてしまったような、感情のない女の声。
 がち、がち、がち、がち。
 巴には逆光で見えなかっただろう。
 母は、ホントウに。
 悲しそうに、泣いていた。
 が、ち。
 母が巴を滅多刺しにする。腹、胸、首、腕、足、腿、指、耳、鼻、目、最後には額まで。
 包丁はそこで折れて、折れた刃で母は自らの首元をぶった斬った。

―――部屋に響く、ばずん、という鈍い音。

              がちがち。がちがち。
              がちがち。がちがち。
        がちが、ち。が、ぢが、ぢがぢ。
      ………………がチがチがチがチがチ!
 ああ、なんて―――――

「―――ひどい、ユメだ」

 現実になっている、俺の悪夢。
 でも、これがどんな現象なのかなんてどうでもいい。
 ただリアルすぎて、俺は吐き気を堪える事しかできなかった。

 さらり、と白い着物が動く。
 両儀は部屋から立ち去ろうとしていた。
「気が済んだなら、出よう。ここにもう用はない」
「……用がないって、どうして! 人が―――俺が、死んでるのに」
「なに言ってるんだおまえ。よく見ろ、血が一滴もこぼれてないだろ。朝になれば目を覚ますよ。朝に生まれて夜に死ぬ『輪』なんだ。そこで倒れているのは臙条じゃないぜ。だって、いま生きてるのはおまえじゃないか」
 両儀のう言葉にハッとして惨劇の現場を振り返る。
 ……たしかに、あれだけの凶行だというのに血が一滴もこぼれていない……。
「な、んで―――」
「知らないよ。こんなコトをする意味がまるで分からない。とにかくここはもういいんだ。さ、早く次に行こうぜ」
 すたすたと両儀は歩いていく。