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第92页



 さて、と壁から離れて橙子は歩きだす。

---ずん。

 音。鈍い音がしたな、と彼女は他人事のように思った。
 口から血がこぼれる。臓腑《ぞうふ》から追い出され、逃げ場を失った血が堪えきれずに吐き出される。
 霞んでいく視界をわずかに下げると、腕が見えた。
 誰かの腕が、自分の胸から突き出ている。
 奇怪なオブジェだ、と蒼崎橙子は思った。自分の胸から男の太い腕が伸びている。腕は、まるまるとした心臓を握っていた。きっと、それは自分の心臓だ。
 結論は、すぐに出た。
 自分は背後に現れた敵に体を貫かれ、じき死のうとしているのだ-----。
「仕留めるのなら一撃か。なるほど、良い教訓になった」
 背後から声がする。
 憂いも嘆きも憎しみも混淆《こんこう》した重い声。
 紛《まぎ》れもなく、荒耶宗蓮という魔術師のもの。
「あれは----人形か」
 血を吐き出しながら橙子は言う。彼女の背後に突如現れた魔術師は無論、と答えた。
「人形作りではおまえにはおよばないがな、私にも先達の業がある。人型作りを行なった妖僧の名、知らぬ訳でもあるまい」
 橙子の体を貫き、取り出した心臓を見つめながら魔術師は続ける。
「---そして、おまえは本物だ。この心臓の猛りに間違いはない。美しい、見事な形だ。潰すのは惜しいが、仕方あるまい」
 ぢゃぶ、と水のつまったビニール袋を地面に叩きつけるような無惨さで、荒耶は彼女の心臓を握り潰した。
「おまえの使い魔のカラクリも読めた。魔物は鞄から出てきたのではない。アレは、鞄が映し出していた映像だな?」
 じろり、と荒耶に睨まれて、床に置かれていた鞄が砕け散る。
 砕けた鞄の中にはレンズとフィルムを備えた機械があった。それはジジジジ、と音をたて、今も回っている一つの映写機だった。

「影絵の魔物か。なるほど、これならばあらゆる攻撃を無効化しよう。大気に映し出したエーテル体が潰されても、本体である幻灯機械が作動しているかぎり何度でも蘇る。......ますます惜しい。これほどの才気を、私は摘み取らねばならないとは」
 荒耶の呟きに橙子は答えない。
 ただ消えていく前に、自己の問いだけを紡ぎだした。
「......アラヤ。以前した質問をしよう。おまえは魔術師として、何を望むんだ......?」
「---私は何も望まない」
 過去に交わしたものと同じ質問、同じ回答。
 それに橙子はくく、と笑った。血の跡を引く唇が、壮絶なまでに美しい。
 何も、望まない。過去、その質問をしたのは橙子ではなかった。彼女達の師が、弟子達を集めて問うたのだ。
 集まった弟子達はそれぞれの魔術理論の完成とその栄光を誇らしげに語った。けれど荒耶だけはこう返答をしたのだ。〝私は、何も望みません?、と。集まった弟子達は彼を無欲な男だと笑いあったが、彼女は笑う事などできなかった。
 ......その時、橙子が感じた感情は畏《おそ》れだ。
 この魔術師は望みが無い、と答えたのではない。
 何も望まない事。この世に一切の、自己の存在すら望んでいない事。完壁な死の世界を、荒耶宗蓮は望んでいる。
 だからこそ、彼の望みは何も望まない事なのだ。
 そこまでに人間を嫌悪し、自己の殻を作り上げた男。無欲といえば無欲だろう。この男は、些細な幸福さえ必要ないと言い捨てて、人間という矛盾を憎んでいる。
「アラヤ。......最後に、呪いを残してやる」
「聞こう。急げ、あと数秒も保たん」
 自分で殺しておいてそれもないものだ、と橙子は毒突く。ともあれ、ここは彼の言うとおりだ。
 彼女の体は、もう唇しか満足に動かなかった。
「............アカシックレコードに触れようとする事で抑止力が動きだす。おまえのように人間を憎む者が全能となれば、世界の終焉が起きる確率が高まるからだ。この抑止力というものには二種類ある。
 一つは霊長である人間が、自分達の世を存続させたいという無意識の集合体。
 そしてもう一つは、この世界そのものの本能だ。
 ......この両者は目的が同じだが、その性質は微妙に異なる。世界そのものの本能がアカシックレコードに触れる者を律するのは、たんに今の地球を支配しているのが人間だからにすぎない。人間の文明社会が崩壊するという事は、この天体の死に直結する可能性があるからだろう。故に世界の意志が作り出した救世主は、英雄と並んで人間の世の崩壊を防ぐんだ」
「---それが?」
 すでに解りきった事を語る橙子に、荒耶は眉をひそめる。
 彼女はひゅーひゅーと息を吐き出しながら、けれどはっきりとした口調で続けた。
「つまりさ、星そのものを生命体と見たガイア論的な抑止力と、我々人間が抱く抑止力は別物だという事だ。......そこでだアラヤ。おまえが生涯の敵として憎んできたのは、いったいどっちなんだろうね」
---ふむ、と魔術師はわずかに思案した。
 言われてみれば、確かにそういう見方もある。
 荒耶は今まで気が付きもしなかった事柄を考える。......そう。長く、長すぎるほど神秘を学んできた彼が、考えようともしなかったその事柄。
 ガイア論的な抑止力。人間の世を存続させようとするコレは、けれど世界が無事ならば人間などどうなってもよい、という結論を持つ。
 反して、人間全体が生み出す抑止力は星さえも食い潰して人間の世を存続させようとする。
 ......答えは、明らかに後者だった。
「語るまでもない。私が幾度となく争ってきた想念、荒耶が敵とみなすモノとは、救いきれぬ人間の|性《サガ》である」
「そちらは地球上すべての人間の意識だぞ。おまえは、たった一人で六十億に近い人の意志に勝てるというのか」
「---勝とう」
 ためらいもなく、誇張もなく、魔術師は即答した。
 様々な人間達の死を集めてきた生きた地獄。どんなに無価値な死に方をしても、その人間の歴史との先にあったハズの未来を構想し、我が物として生きてきた魔術師。
 橙子は思う。
 それは全人類を敵に回しても勝つ、という鋼のように鍛えられた極限の自我だ。
 それを荒耶宗蓮は持っている。本当にそうであるかは問題ではない。そうであると断言するその意志が真実なのだ。この問い掛けをした時、荒耶宗蓮は明確に六十億もの人間の尊厳と一つ一つ戦う場面を想定したに違いない。
 その、極限まで真実に近い仮想をもって、それがいかに苦しいものかを知ってなお、勝とうと荒耶は断言する。
 この意志の強さこそが、この魔術師の強さだった。
 だが----そこに、最大の落とし穴がある。
 彼ほどの魔術師なら真っ先に気づかねばならないその事柄を、ついぞ教えられなかった最大の矛盾と抑止が。
「......哀れだな、アラヤ」
「なに--?」
 荒耶は声をかけたが、彼女はすでに生命活動を停止していた。蒼崎橙子の肉体はすでに人として機能しない。
 残された死滅は脳髄のみ。血液の通らなくなった脳は、幾ばくかを待たずして破損する。彼女が蓄えてきた知識も技術も、全て失われてしまう。
 黒い魔術師は橙子の体から自らの腕を引き抜くと、そのまま彼女の頭に掌を置いた。顔を鷲掴みにして、ばきり、と首の骨を折る。