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第141页


「いいえ。それは記録ではなく記憶でしょう。記憶とはつまり、その人物の性格でしかない。性格はそのつど変わるもの。外界に順応する為に変わる性格はドレスみたいなものです。君なら解るはずだ。口調や性格、肉体など所詮、自己を判りやすく表現するための服装にすぎないと」
 一歩。魔術師は私へと足を踏み出した。
「観測者自身が、観測される対象になること。自分自身がいるのではなく、自己が重ねてきた時間そのものが自己だと認識し、受け入れること。人格など、初めから存在しないと認めること。記録とはつまり、自身の考えでさえ影響をうけない魂の核です。それこそが永遠に保管されるものなんだ。自らの内に取り込め、一緒になれる自分自身の傷なんだから。
 それなら、たとえ世界がなくなろうと自身に残り、自分という世界が終わるまでともにある。
 それは、ずっと残っていて。
 それは、ずっと変わらない」
 ……性格などいらない。自己が重ねてきた歴史だけが自己を示す証であるのなら、それは何が起きても変わらないモノになる。観測者そのものが観測される対象になれば、観測するモノも不変であり、観測される対象も不変。
 それが永遠だと魔術師は言った。
「……おまえの言っている事は、わからない」
「そうでしょうね。簡単に物事を忘却できる君達にはわからない。この世界で永遠と呼べるものは人の記録だけなんです。君達は人生の後に思い出が出来ると錯覚している。本当は思い出の後に人生が作られているというのに。
 人には、忘れさっていい記憶なんかない。人格が切り捨てた記憶を、その個人自体は捨てたくない。だから君達の願いは、いつだって忘却の録音なんだ。私は、彼女達の鏡像として、その願いを返しているだけです」
 さらに一歩。魔術師は笑顔を取り戻して近寄ってくる。
 私はナイフを持つ手にいつも通りの微熱を感じて、気がついた。
 ……胸の動悸も指先の痺れも、喉の渇きもいつのまにか消えている。
 長くて、そのクセほんとうに意味なんてなかった会話のすえ、私はこの相手の正体が視えていた。

 動悸はとうに収まっている。
 ……たしかに、こいつは幹也と似てる。
 けど決定的に違う。同じなだけで、違う過程を歩んだものだ。その違いをはっきりと悟って、私はコレを単純な敵と認識できていた。
「……善悪の概念はない、か。たしかにおまえが悪いわけじゃない。おまえはただ、誰かの願いを聞いているだけだものな」
 だけど、違う。善悪の概念はちゃんとある。たしかに玄霧皐月自身に意志はない。けれどこいつには物事の善悪をきちんと量れる知性があるのだ。それを持っているくせに善も悪も等価値に扱う時点で、こいつには無害を自称する資格なんかない。
「やっとわかった。おまえはさ、鏡のフリをしているだけだ。そうやって無害なフリをしているだけなんだよ。責任を他人に押しつけて、まるで子供のままじゃないか」
 私の言葉に、魔術師は嬉しそうに目を輝かせた。

 どこかピエロに似た―――――

「私と戦う、というのですね、式君」

[#地付き]―――――狂気を含んだ歪《いびつ》な笑い。

「いいでしょう。ならば私も荒耶との契約をはたす事にします。お互いに無視しあえれば良かったのですが」
 魔術師が眼鏡に手をかける。
 戦いの前に眼鏡をとっておこうというのだろうが、私の体はそれを待つほど我慢強くない。
 一足で、玄霧皐月に切り付けられるまでに間合いを詰めた。

【あなた」「には」「見えない】

 魔術師の声が、聞こえた。
 脳そのものに直接響くそれは、間違いなく真実だった。
 私は一瞬で玄霧皐月の姿を見失って、振るったナイフは空を切った。
「な―――」
 周囲を見渡す。
 礼拝堂に人の姿はない。ただ、私以外のもう一人の気配だけがこの肌に伝わってきていた。
 玄霧皐月はたしかに、私の目前にいる。なのに私には魔術師の姿を見付ける事が出来なかった。
「……危ないな。声より早い行動ができるなんて、侮《あなど》っていたよ。おかげで片腕をもっていかれた。荒耶が敗れたのも頷ける。君はたしかに、殺す事に長けているようだ」
 声は目前から聞こえる。私は襲いかかりたい衝動を抑えて、目前へと意識を集中させた。
――仏霧皐月を見る事ができないのなら。
  ヤツの、死の線だけを視つければいい――
「だが、君では私には勝てない」
 声は私の思考に直接響いた。それより早く、魔術師の死の線を凝視していた。
「―――――視つけた」
 今度こそ、逃がさない。
 再度、魔術師へと肉薄する。
 けれど―――それさえも私は見失った。

【ここ」「では」「見えない】

 声が礼拝堂に響く。
 礼拝堂は、一切が闇に落ちた。魔術師の一声で一筋の光もない、何もかもが不可視な世界になってしまう。
「……ふむ。やはり君個人には効きが薄かったか。根源に通じている君の体と私の言葉は同じ階級だからね。だがそれもこうすればいいだけのことだ。ここでは、たとえ両儀式であろうとも死を視る事はできない。……まあもっとも、こうなっては私本人も何ひとつ見る事ができないんだけどね」
 耳元で声がする。
 振り向いてナイフを一閃しても、切り付けるのは風ばかりだ。
「無駄だよ。君では私には勝てないといっただろう。
 そう―――あらゆるモノを殺害する君でも、言葉だけは殺せないから」
 ……そんなコト、考えた事もなかった。
 でもたしかに。
 私は、言葉だけは殺す事ができない――
「だが、かといって私に君を殺せるかというとこれも否《いな》なんだ。私ができるのはこの程度さ。少しでも君に近寄ればたやすく組み伏せられるだろう。だから命のやりとりはしない。もともと、私は戦いをする者ではないんだ。
 ボクがするのは、君の望みを叶える事だけだからね」
 その言葉に、私の体は微《かす》かに震えた。
 私の望み―――忘れ去りたい、私の真実。
「やめろ。そんなモノ、私は欲しくなんかない!」
 叫びは闇の中に消えた。
「さあ―――君の嘆きを再生しよう。安心したまえ。たとえ君が忘れ却ろうとも―――記録は、たしかに君に録音されているのだから」
 それは感情のない、メトロノームみたいに整った音。
 魔術師の声が式という私の中に浸透していくのを、私は止める事もできずに、ただ見つめ続けるコトしかできなかった――――。


忘却録音/

 6

 幹也からの電話を切って、わたしは高等部の校舎へ急いだ。
 時刻は午後一時を過ぎたばかり。
 空模様は今にも泣きだしそうな鉛色で、頭上は厚い雲に覆われている。
「……この分じゃ、今日は雨になるのかな」
 冬の冷たい空気を肺にしみ込ませながら、わたしは昏い森を抜けて校舎に辿り着いた。
 誰もいない廊下を歩いて、一階の端にある英語教諭の準備室に行く。
 ノックもせずに扉を開けると、玄霧皐月という教師はすべて解っていたように、椅子に座ってわたしを待ち受けていた。
 彼はいつも通り、笑顔のままでこちらの全体像を観察する。その左腕はだらりと下げられていて、まるで体のその部分だけが死んでいるようだった。