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第176页


 そう私を束縛した男は、庇った動物に、殺された。
 ……どうしてだろう。
 アレは私の物だったのに。
 あいつを殺していいのは、私だけのはずだったのに。
「――絶対に」
 ナイフを手に取る。
 両手で握って、私は立ち上がった。
 俯《うつむ》いたまま、刃を胸に抱いて立ち尽くす。
 下を向いたまま、私は口を開けた。
「――いいよ、やろう」
 相手を見ないで、俯いたまま。
 顔をあげても仕方がない。
 だって、私にはさっきから――あのケダモノの姿が見えていないんだから。
「――私を許せないといったな。たしかにその一点だけ私達は似ているよ、白純」
 ケダモノが、走ってくる。
 私は俯いたまま、それを無視した。
 殺し合いの相手なんか、あとでいい。
 今はまだ――噛み締めていたいんだ。
 この胸《ナイフ》に、彼の暖かさが残留している束の間は。

 ◇

 白純里緒の体が跳ねる。
 一直線に襲いかかってくる敵を前にして、それでも彼女は動かなかった。
 ざくりと、ケモノの爪が腕の肉を削ぐ。
 血が流れて、敵が真横を走り抜けても、式は俯いたままだった。
 彼女の両手は、優しくナイフを抱いている。
 かけがえのない宝物のように、大切に、大切に。


 覚えていた熱が薄れていく。
 自分の体温とか、触れあった時の肌の温かさとか。
 こんな私にも少しはあったんだと思えていたココロとか、あいつが信じていた私のココロとかが。
 血が流れて、傷を負って、体はどんどん冷たくなる。
 けど、痛みはあまりなかった。
 痛みなら、もっとつらい痛みを知っていたから。
 ……冷たいあめにうたれて、わたし達は何度も何度も追い駆けっこをしていたっけ。

 ――そう。凍えた吐息だけが熱を帯びて。
   お互い切れそうな呼吸をみてた。

 ざん、とまた肉が削ぎ落とされた。
 敵は狩りを楽しむように、動かない私をいたぶっている。
 目にも留まらぬスピードで走り抜けて、すれ違いざまに肉を抉《えぐ》っていっている。
 ……外の雨は、まだやまない。
 思えばなんでもないことが、私にとっては喜ばしい事だった。

 ――たとえば雨。
 霧のように降りしきる放課後、きみの口笛を聴いていた。

 三度目、足を抉《えぐ》られた。
 ざば、と音をたててコンクリートが濡れていく。
 骨まで食い込んだ爪は足と床を血塗れにして、立っている事さえ苦痛にさせた。
 ……そう、立っている事さえ、息苦しかった。
 でもたまには笑いあえた時だってあったと思う。
 織は、きみが好きだったから。

 ――たとえば夕暮れ。
 燃えるような景色の教室で、きみとボクは語り合った。

 敵の能力は、以前とは比べものにならない。迅さも正確さも本物のケモノ以上。
 対して、私はがらくただ。心も凍ったまま、体もじきに動かなくなるだろう。
 だっていうのに、私はその事実を愉しんでいるから救いがない。
 まだ腕は動くから。次に走り寄ってくる所を、確実に仕留めよう。

 ――きみがいて、わらっているだけで、幸せだった。

 四度目、走り寄ってくる。
 敵の狙いは右腕だ。
 それがわかっているのに、私は動けなかった。
 ……だって人殺しはいけないことだから。

 ――きみがいて、あるいているだけで、嬉しかった。

 血を流しすぎて、気が遠くなる。
 体はすぐにでも倒れてしまうだろう。
 だっていうのに、私はあいつの言葉を守ってる。
 ……白純里緒を殺せない。
 たとえ死んでしまっても、私の中で、彼の言葉は生きているから。
 ……あの暖かさを、ずっと守っていたいから。

 ――ほんのひととき。
   木漏れ日が暖かそうで、立ち止まっただけ。

 でも、嬉しかった。
 私を普通に扱ってくれるきみが。
 人を殺してはいけないんだよ、と真剣に話してくれる事が嬉しかった。
 口になんかしてやらないけど。

 私にしてみれば、おまえのほうがずっと奇跡みたいにキレイだった。

 ――いつか、同じ場所に居られるよときみは笑った。

 五度目の爪がやってくる。
 それがきっと、私の最期だ。
 敵は首筋に切りつけるだろう。
 もう放っておいても出血で死ぬ私の息の根を止めるには、頸動脈は十分すぎる。

 ――その言葉を、ずっと、誰かに言ってほしかった。

 ……死が迫ってくる。
 振り返ってみれば、私の今までは楽しかったことばかりで、つい顔がほころんでしまう。
 たった一年間の昔と、たった半年間の今まで。
 駆け抜ける時間は速くて、掴みとる事もできなかった。けど、感謝してる。嘘みたいに幸福《しあわせ》だった。
 かわりばえのしない退屈な高校生活。
 あらそいのない穏やかな日々の名残。

 ――それはほんとうに。
   夢のような、日々でした。

 ありがとう。でも、ごめんなさい。
 ……私は顔をあげてヤツの死を視る。
 無くしてしまうのはわかってる。
 きみが信じてくれたものや、きみが好きだといってくれた私を。
 わかっていても、私はヤツを殺すことにした。
 それで今までの自分がみんな消えてしまうとしても、きっと誰も傍《そば》にいてくれなくなるだろうけど。
 それでも――それでも私は、おまえを殺したこいつが許せない――。

 ――走りよる敵を彼女は見つめる。
   そうなってしまえばことは易しい。
   水面《みなも》を発つ白い鳥のように鮮やかに。
   結末までは、ほんの一瞬だったから。






 ◇

 終わりは、ひどくあっけなかった。
 首筋に伸びてきた白純里緒の腕を、彼女は断ち切った。
 そのまま敵の両足を一息で切断する。風船のように宙に浮いた白純里緒の体にナイフをつきたてて、容赦なく地面に叩きつけた。
 ナイフは、墓標のように心臓を貫いている。
 がは、と彼は一度だけ息を吐いて、終わった。
 白純里緒の顔は、驚いたままで止まっている。
 あまりの早業に自分が殺された事も気付かないまま、白純里緒は生命活動を停止した。

 ◇

 ナイフは墓標のように白純里緒の胸に突き立てられている。
 両手でナイフを持った彼女は、ずっと、膝をついたまま動かなかった。
 窓から入り込む陽射しは斜光。
 灰色の明かりに照らされた姿は、死者を送別する神父のように、色というものがなかった。
 白純里緒の屍に出血はない。
 倉庫に散らばる鮮烈な朱色は、すべて彼女自身の肉体から流れたものだ。
 腕を、足を、体を引き裂かれた彼女の命は、おそらくは数分と保つまい。
 ……いや、両儀式であるのなら数分の命を何倍も保たせて、治療を受ける事で回復できるだろう。
 けれど、彼女はそれをしなかった。
 ナイフから手を離して、背中から床に倒れこむ。
 あぁ、と唇が吐息を漏らした。
 もっと呼吸の間隔を長くして、切られた傷口の神経を遮断する。そのまま体を休めていれば、助けを呼ぶぐらいの体力は回復する。
「…………でも、いいや」