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第31页


 彼の言葉は、よく、わからない。
 あたまがわるいせいだろう、と藤乃は無視する事にした。
「……|凶《まが》れ」―――呟く。
 それは何度めかの同じ発音。
 繰り返し繰り返す言葉は呪いになると、彼女の友人は教えてくれた。
 青年は地面に這いつくばり、首だけを動かしている。
 両手は捻れて、右足はない。
 足からの出血が地面を濡らす。
 赤い絨毯みたいだ、と藤乃はそこに踏み込んだ。
 靴が血に沈む。
 夏の夜は暑い。粘つく大気が肌に|纏《まと》わりついて、苦しくなる。たちこめる血の薫りはそれに似ていた。
「――――あぁ」
 芋虫みたいな青年を見下ろして、藤乃は嘆息する。
 なんて事を自分はしているのか、と自分が厭になった。
 でも初めからこうするつもりだったんだ、とも思う。この人が地下のバーでの事件を知らないのは素振りでわかったけれど、それでもいずれは知ってしまう。その時湊啓太を捜していた自分の事を、彼は不審に思うだろうから。
 でも、これは仕方のない事だ。
 彼も初めからその気だったし。
 間接的になるけれど、これも浅上藤乃の復讐なのだ。自分を侵した者への反撃にすぎない。ただそれが、彼らの他人を侵す能力と藤乃の他人を侵す能力に差が有り過ぎただけで。
「ごめんなさい――――わたし、こうしないといけないから」
 青年の残った左足が千切れた。
 それでかろうじて残っていた彼の意識も途切れた。
 微動する青年の肉体を、藤乃は俯いて見つめる。
 今は、彼の気持ちがわかる。
 今まではわからなかった。他人が痛がる仕草がどうしても理解できなかった。痛みを知った今の彼女は、青年の痛みに強く共感できていた。
 それが嬉しい。生きていくという事は、痛んでいくという事だから。
「こうしてやっと―――わたしは人並みになれる」
 自分の痛み。
 他入の痛み。
 彼をここまで追い詰めた自分。あの傷を与えたのが自分。
 浅上藤乃が優れているということ。
 これが生きているということ。
 それは、
 誰かを傷つけないと生きる愉しみを得られないという酷い自分。
「―――母さま。藤乃はこんな事までしないと、駄目な人間なんですか」
 胸の中に湧いた苛立ちが堪えきれない。
 心臓が早鐘を打つ。
 背筋に百足が這い上がってくるような―――
「わたし、人殺しなんかしたくないのに」
「そうでもないよ、おまえは」
 突然の声に藤乃は振り返る。
 倉庫と倉庫の間であるこの路地裏の入り口に、着物姿の少女が立っていた。
 暗く月明かりを反射させる港を背にして、両儀式がそこにいる―――――

          ◇

「式――――さん?」
「浅上藤乃。……なるほど、浅神に|縁《ゆかり》の者だったのか」
 からん、と足音を立てて式が一歩だけ踏み込んだ。
 路地裏に充満した血の匂いに、式は瞳を細める。
「いつから―――」
 そこに、と言いかけて藤乃は止めた。そんなことは訊くまでもない。
「ずっと。おまえがその肉片を誘い出すあたりから」
 冷たい声に、藤乃はぞくりとした。
 式は一部始終見ていた。見ていたのに、出てきた。見ていたのに、止めなかった。こうなる事を知っていたくせに、ずっと見ていた……。
―――このひとは、異常だ。
「肉片だなんて言わないでください。このひとは人間です。人間の死体です」
 心とは裏腹に、藤乃はそんな風に反論していた。
 青年を肉片、と人間以下に貶める式の言葉があんまりだと思ったからだろう。
「ああ、人間は死体でも人間だ。心がなくなったぐらいで肉片にはなりさがらない。けど、それは人間の死じゃないだろ。人間はさ、そういう風には死なないよ」
 からん、ともう一歩踏み込んでいく。
「人間らしい死を迎えなかったヤツは、もうヒトじゃない。頭が残っていようが傷がなかろうが、おまえに殺されたヤツは常識では扱いきれないだろ。境界から外されたヤツは根こそぎ意味を剥奪されるんだ。だから、それはただの肉の集まりにすぎない」
 唐突に―――藤乃はこの相手に反発心をもった。
 式はこの青年の死体と、それを行なった自分が常識外のモノだと言っているのだ。今、眉ひとつ動かさず惨劇を見つめているこの|両儀式《少女》と同じように。
「……違います。わたしはまともです。あなたとは違う!」
 何の根拠もなく、如何なる理由もなく、藤乃は叫んでいた。
 式はおかしそうに微笑う。
「オレ達は似たもの同士だよ、浅上」
「―――ふざけないで」
 藤乃は式を凝視する。|爛《らん》と自分の瞳が捉える映像が歪みはじめる。……彼女が子供の頃に持っていた“力”が行使される。
 けれど、それは唐突に薄れていった。
「――――!?」
 驚きは、けれど式と藤乃ふたりのものだ。

 浅上藤乃は使えなくなった自分の“力”に。
 両儀式は途端に変わってしまった浅上藤乃に。
「またか――――おまえ、一体どうなってやがる」
 式は怒った。台無しだ、とばかりに頭を掻く。
「さっきまでのおまえなら殺してやったのに。喫茶店の時もそうだった。……もういい、白けた。今のおまえなんか知らない」
 言って、式は|踵《きびす》を返して歩きだした。
 足音が藤乃から遠ざかっていく。
「大人しく家に帰れ。そうすれば二度と会う事もない」
 姿も、それで遠くなった。
 藤乃は血だまりの中、ぼうと立ち尽くす。
―――以前の自分に戻ってしまった。
   また、何も感じない。
 藤乃はもう一度、青年の死体を見下ろした。
 さっきまでの感覚もない。罪の意識だけが脳を痺れさせる。
 あとに残るのは、式が残した言葉だけだ。自分達は同じ殺人鬼だよ、という告発めいた台詞だけ。
「違う――――わたしは、あなたなんかとは違う」
 泣くように藤乃は弦いた。
 事実、彼女は殺人を厭がっている。
 この先、湊啓太を見つけだす為に同じ事を繰り返さないといけないのか、と思うと震えてくる。
 人を殺してしまうなんて、許されるはずがないから。
 それは彼女のまったくの本心。
 ……血だまりに映った彼女の口元は、小さく笑っていた。



  痛覚/残留

          3

 七月二十三日の早朝、ようやく僕は湊啓太の居場所に辿り着いた。
 彼の友人達から聞いて得た情報、彼の行動範囲の限界、それから湊啓太の人となりから推測して、まる一日かけて隠れ家を絞り込んだ。
 都心から離れた住宅街のマンションの一つ、六階の空き部屋に湊啓太は不法侵入して寝泊まりをしている。
 その部屋のチャイムを鳴らして、大声にならないように声をあげた。
「湊啓太。君の先輩に頼まれて捜しにきた。邪魔するよ」
 玄関のドアの鍵は開いていた。
 静かに中に入る。部屋には電灯が点けられていず、朝だというのに薄暗かった。
 フローリングの廊下を歩いてリビングに出る。何もないリビングからは台所と寝室が見渡せた。もとから誰も住んでいない為、一切の家具がない。ガランとした部屋に、夏の朝日だけが明るかった。