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第129页


 ――――いや。

 きっと、理由はある筈なんだ。わたしが忘れているだけで、なにかとても大切なことをなくしている。
 なら、思い出さないといけない。
 わたしがわたしを信じられるように。
 この恋慕が確かなものだと誓えるように。
 そうすれば、きっと―――鮮花は、生まれて初めてごめんなさいと言えるんだ。
 すごく不器用な口ぶりになるだろうけど、でも本当に素直な心で、お兄ちゃんに謝れるから―――

     …

「起きろ鮮花。風邪ひくぞ」
 聞き慣れた声が、男性のようなイントネーションで聞こえてきて、わたしはゆっくりと目を開けた。
 誰かがわたしを抱き起こして、顔を覗き込んでいる。
 腰には冷たくて、硬い感触。
 廊下で眠ってしまったわたしを、誰かが起こしてくれているのだとおぽろげに理解できた。
「幹―――」
 途中まで名前を言いかけた時、相手が黒髪の女と判って口を塞いだ。わたしと女……両儀式は、お互いに無言で見つめ合う。
「……………」
 式は、とうとつに手を離した。
 彼女に抱えられていたわたしの上半身は、それでバタンと床に打ち付けられる。
「い、いきなり何するのよ、このばか!」
 思いっきり背中を廊下に打ち付けて、わたしはたまらず立ち上がる。
 式は感情のない目でこちらを一瞥《いちべつ》すると、目が覚めたろ、なんてどうでもいい言い訳を口にした。
「ええ、覚めたわ。覚めましたとも。おかげでどんな夢を見てたか忘れるぐらい、爽快な覚醒だったわ!」
「なんだ。またやられたのか、おまえ」
 言われて、わたしは思い出した。
 黄路美沙夜との会話。その後の出来事。
 妖精を掴まえて、その後に隙をつかれてあっさりと眠らされて、こうして式と話しているという事。
「あれ、おかしいな。やられたのは事実だけど、今度はもってかれてないみたい。私、記憶は鮮明だもの」
「じゃあ妖精使いを見たんだな」
 ええ、とわたしは頷く。
 拍子抜けといえば拍子抜けだけど、今回の事件の首謀者ははっきりした。ふと腕時計を見てみると、時間はあれから数分と経っていない。
 おそらく、彼女はわたしをここでどうにかするつもりだった。けどその前に式がやってきたので撤退した、という所だろう。わたしは知らぬ間に、両儀式に助けられたということか。
「……ありがと、式」
 式が聞きとれないように早口で小さく言っておく。そうして、わたしは今回の主犯が黄路美沙夜だという事を告げた。
「黄路美沙夜って、昨日の背の高い女?」
「そう。ついさっきまでやりあってたけど、式が来たから逃げ出したみたい」
 そっか、と式は頷く。けれど彼女は指を口元にあてて、なんだかしっくりいかない様子だった。
「どうしたの、式。なにか腑《ふ》に落ちない点でもあるの?」
「だって、あいつ自身も忘れてるのに」
 式は訳の分からない事を口にする。
 ……けど、それは何か、とても意味のある単語だ。
 美沙夜自身も忘れている。それは、つまり、その……
「ま、いいか。人間なら物忘れの一つや二つはあるさ。それより鮮花。幹也から電話があった。なんでも橘佳織とかいう女の成績を調べてみろってさ」
「――――え?」
 式の台詞は、わたしの中途半端な思考を止めてしまうほど意外だった。
 わたしは、幹也がこういった類の事件に関わるのは許せない。
 彼は夏におかしな幽霊事件に関わって、三週間ばかり眠り続けた事がある。幸い幹也は一人暮らしだから両親には知られなかったし、昏睡していた身体の管理は橙子師が行なってくれたから良かったものの、橙子師がいなかったら三日ほどで命を落としていただろう。
 それ以来、わたしは幹也がつまらない厄介事に関わらないとようにと目を光らせている。……始末の悪い事にあの男はこういう事にだけは物凄くカンが働いて、去年の十一月だって寮の火事の事で色々と勘繰っていたりしたのだ。
 ゆえに、わたしは今回の事件については幹也に一言も話していない。橙子師にも秘密は厳守させた。なのに、どうしてこんな絶妙のタイミングで連絡をいれてきて、あまつさえ橘佳織の成績を調べろ、なんて言ってくるんだろう? いったい幹也は誰から今回の話を―――
「……そっか。考えるまでもなかった。元凶はいつだってあんただものね、式」
「なんだよ。居ないおまえが悪いんだ。あの様子じゃ明日もかけてくるだろうから、昼すぎは自分の部屋で待ってればいいだろ」
 そういう事ではないのだが、そういえばそれも横取りされたのかと気がついて、式を睨む目がよけい厳しくなってしまった。
 式はわたしの視線を気にもしないで話を続ける。
「幹也が言うには体育の出席率が重要らしいぜ。どう思う、鮮花。オレにはあいつの考えなんてさっぱりだ」
「体育の出席率?」
 なんだろ、それ。新手の暗号かしら、なんてとぼけた時、脳裏に稲妻めいた閃きがあった。
 黄路美沙夜は言った。橘佳織は火事に巻き込まれて死んだのではない。彼女は自殺したのだと。
 重要な事をわたしは聞き逃し、核心となる事実を黄路美沙夜は口にしなかった。
 それは橘佳織の――――
「……自殺の、理由」
 口にして、わたしは駆け出していた。
 火事で半壊している旧校舎を飛び出して、森の中を全力で走り抜ける。
 何かに取り愚かれたようにわたしは走った。
 行くべき場所は決まっている。
 生徒の健康状態を調べる為には、カルテが保管されている保健室に行くしかないのだから。
 そうして、私は橘佳織の健康診断書と、保健室の使用記録を発見した。
 九月から体育はすべて見学。十月からは欠席が目立ち、あの火事が起きる一週間前からは一度も登校していない。
 念の為に保健のシスターに尋ねてみると、案の定彼女はある相談をしていたという。
 これで伏せられていた力ードはすべて開いたな、とわたしは暗い心持ちで確信できた。

 /4

 日が落ちて、校内にちらほらといた生徒達が各々の自室に戻っていく。礼園の寮の門限は午後の六時までで、それ以降は生徒に自由というものはない。
 私と鮮花は食堂で寮生達による合同の食事を終えて、自分たちの部屋に戻ってきた。窓の外はとうに暗い夜の闇に包まれている。聞こえてくる音は風にゆれる木々の音だけで、寮舎は寒気がするぐらい寂しい雰囲気だ。
 そういう所だけなら私は気に入っていて、全寮制でなければ本当に転入してもいいとさえ思っていた。都心の高校はとにかく煩《うるさ》すぎるのだ。
 そんな事を考えながらベッドに腰を下ろす。
 鮮花はきちんとドアの鍵を閉めると、長い髪をなびかせてくるりと振り返った。
「式。隠しているもの、あるでしょ」
 人差し指をたてて、鮮花はこちらを見つめてくる。
「隠しているものなんてない。おまえのほうこそオレに黙ってるコトがあるだろ」
「私が言ってるのは物質的な物です。いいから四の五の言わず、さっき食堂でちょっぱったナイフをだせっていってるの!」
 喧嘩腰で鮮花は言った。
 ……驚いた。鮮花の言うとおり、私はさっき食堂で出されていたパン切り用のナイフをこっそり服の袖に忍ばせていたのだ。