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第165页


 糸を吐き出すような細く長い呼吸をして、先輩は頷いた。そんな事より話をしよう、と途切れがちな声で言う。
「……いいかい、黒桐くん。人格として表層意識に具現させられた本能は、理性を駆逐《くちく》する。ボクという、白純里緒という人格を凌駕《りょうが》してしまうんだ。なにしろ相手はボクの起源なんだ。たった二十年程度で培《つちか》った白純里緒というカタチは、いつまでも起源を抑えきれなかった。……荒耶さんは言っていた。起源を覚醒した者は起源に縛られる、と。キミには分からないだろうな、黒桐くん。ボクの起源はね、〝食べる?という事柄だったんだ」
 くくく、と笑いながら先輩は言う。
 呼吸は、もう見ていられないほど荒々しくなっていた。
 先輩は吐き気を堪《こら》えるように、懸命に腕に力を入れている。体の震えも激しくて、かちかちと歯が鳴っていた。
「先輩、気分が――」
「……いいから、続きを説明させてくれよ。まっとうな会話なんて、これが最後かもしれないんだから。
 ……さて。表層意識に具現化した本能は、肉体そのものを微妙に変化させる。無論、外見が変わるわけじゃない。内部構造が組み替えられるだけだ。先祖還りというものらしいよ。だからさ、変わっていく本人でさえ、その時まで気がつかないんだ」
 胸に当てていた腕を顔に上げて、先輩は笑いを噛み殺す。
 彼は手の平で自分の顔を覆ってしまった。
 まるめた背中は笑うたびに上下して、喘息《ぜんそく》の患者のように危なかしい。白純里緒の圧し殺した笑いは、ワライタケを食べてしまった人のように病的で、見ていられなかった。
「……はは、つまりはそういう事だ。ボクは、いつのまにか、そういうモノになっていた。
 起源は衝動だ。そいつが起きた時――ボクは、ボクで、なく、なる。当たり前のように、何かを、食べるしかない。くそ、わかるか幹也。なんだよ、食べる事が起源って! なんだってそんなモノがボクの――俺の大元だっていうんだ……! 俺はそんなつまらないコトに、俺自身が消されちまうっていうんだぜ!? ……ああ、そんなの、認めたくない。そんなコトで、俺は消えたくない。俺は――俺のままで、死にたいんだ」
 ぎり、と歯を鳴らして、白純里緒は机から離れた。

 瞳に涙をためて、両肩を激しく上下させて、懸命に何か凶暴な感情を抑えようと闘っている。
「……先輩、榿子さんのところに行きましょう。あの人なら、なんとかできるかもしません」
 先輩は畳に膝をついたまま、ぶんぶんと首を横にふった。
「……ダメだ。ボクは、特別だから」
 そんな事を口にして、先輩は顔をあげた。
 彼の痙攣《けいれん》はしだいに激しくなっていく。けれどその表情は、とても穏やかなものだった。
「……ああ、キミは優しいな。……そうだった。いつだって、キミだけは白純里緒の味方だった。だからボクがこうして自分を保っていられるのは、キミのおかげなんだろう。……うん。ボクだって、キミを殺す事なんて、やりたくない」
 そのまま、先輩は僕の足元にしがみついてきた。
 寄りかかる腕の力はとても強くて、足が折れてしまいそうだ。
 それでも恐ろしくはない。だって力が強ければ強いほど、それは白純里緒が抱いている絶望の大きさなんだ。それを拒むコトなんて、できない。
「白純――先輩」
 僕は何もできず、ただ立っている事しかできなかった。
 先輩は僕のコートにすがったまま、膝をついてうつむいている。痙攣《けいれん》はますます激しくなって、も体が二つに別れてしまいそうだった。
 不意に――彼は、小さく声をあげた。
「ボクは、人殺しだ」
 絞りだすような、小さな懺悔《ざんげ》。
「……ええ、そうですね」
 今に窓越しの海を見つめて、答えた。
「ボクは、普通じゃない」
 吐きだしてしまいそうな、小さな自戒。
「――そんな事、言わないでください」
 窓越しの海を見つめて、答えた。
「ボクは、どうしようもない」
 泣きだしてしまいそうな、小さな告白。
「――生きてるかぎり、そんな、コトないです」
答えても。窓越しの海を見つめることしか、できなかった。



 泣くような言葉。
 とりとめのない返答。
 そこに、どんな救いがあったのかわからない。
 ただ最後に。白純先輩は、喉から絞りだすように、か細い声で呟いた。
「――ボクを、助けてくれ、黒桐」
 ……その言葉への返答は、僕にはできない。
 僕は自分の無力さを、今度こそ、呪いたくなるほど思い知った。
「ご――ふ」
 白純先輩の声があがる。
 彼は一際《ひときわ》高い呻《うめ》き声をあげると、片腕で僕を壁まで弾《はじ》きとばした。
 がん、と激しく背中を壁に打ちつけられたあと、先輩に視線を戻す。
 ――白純里緒は充血した眼をして、ただこちらを見つめていた。
「……もう、俺を捜すな。次は殺すことになる」
 くぐもった声で言って、彼は机の上に身を乗り出す。
 がしゃん、と窓ガラスの割れる音。
「――先輩! 橙子さんの所に行きましょう。そうすれば、きっと――」
「きっと、なんだっていうんだ? 治る保証なんてないだろうし、戻ったところで俺には何も残ってない。むざむざ殺人の罪に問われるのなら、このまま行き着く所まで行くまでだ。それに俺は両儀式に狙われてる。早く、あいつから逃げなくちゃいけなくてな……!」
 笑いながら言って、彼は金色の髪をなびかせて窓から飛び降りた。
 急いで窓に駆け寄ったけれど、眼下の港には先輩の後ろ姿さえ見当たらない。
「……なんて、バカなコトを」
 ようやく落ち着いて、そんな独り言を呟いた。
 ……そんな事で、何が解決するのでもない。
 白純里緒に出口がないように、黒桐幹也にも出口らしきものは用意されていないんだ。
 やりきれない無力感に唇を噛みながら、式の残骸に埋もれた部屋を後にした。
 何の打開策も見当たらなくったって、やるべき事は残っている。
 式を見つけるし、先輩も放っておけない。
 ……そう、何処にも救いがないとしても。白純里緒自身の為に、これ以上彼に殺人を犯させてはいけないんだから。



殺人考察/4

  ◇

 八月。
 あの日から一睡もできない。
 恐くて恐くて、外を出歩く事もできない。
 のうのうと生き延びてる自分が厭《いや》で、鏡を見る事もできない。
 僕は、最低の人間だ。
 何もする気になれないし、何も食べる気になれない。
 僕はひとつも傷を負っていないのにボロボロで、まるで死人のように暮らしている。
 七日目に気がついた。
 あの時に死んだのは彼だけではなかったっていう事に。
 ほんと、どうして誰も教えてくれなかったんだ。
 誰かを殺すというコトは、自分も一緒に殺すんだっていう単純な現実を。

  ◇

港から自分の部屋に帰ってくる頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
二日ぶりに戻ってきた部屋には、当然のように誰の姿もありえない。
テーブルの上に広げっぱなしの街の地図と、飲みかけのコーヒーが残ったマグカップ。……淋しさだけが支配するこの空問には、式の姿もその面影も稀薄になってしまっていた。