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第163页


 初めに感じたのは恐怖。
 その後は、ただ歓喜だけが彼を支配した。
「……ああ。やっぱり、おまえは本物じゃないか」
 そう、彼女は本物だ。間違いなく、自分と同じ世界に棲むべき存在なのだ。
 そして、彼女の本性を暴きたてた原因ははっきりとしている。ある人物を殺すと仄《ほの》めかしただけで、両儀式が自分より遥かに上質な殺人鬼になったことを、彼はきちんと理解していた。
「……簡単な話。邪魔者は、殺せばいい」
 彼は壁を駆けあがって、路地裏から去っていく。
 式が追ってくる気配はしたが、逃げるという行為ならば誰も彼には敵わない。
 一本も木がないにしても、この街は彼にとっての密林だった。姿を隠し、獲物を捜しあてる事は造作もない作業と言える。
 月のない夜、殺人鬼は歓《よろこ》びのために吼《ほ》えた。
 長い、四年越しの恋慕がようやく叶《かな》うのだと予感して。



殺人考察/3

 ◇

 七月。
 弱い人は嫌いです
 彼女は平然とそう言った。
 弱い人は嫌いです
 両儀式は僕をそう拒絶した。
 弱い人は嫌いです
 その意味が、僕にはよく分からなかった。

 その夜、
 初めて人をなぐった。
 その夜、
 初めて人をころした。

  ◇

 ……二月十日、曇り、ところにより晴れ。
 力ーステレオから流れてくる天気予報は、昨日とあまり代わり映えのしない天気を告げていた。
 ハンドルを握りながら腕時計を見てみると、時刻は正午になったばかり。
 いつもなら橙子さん相手に事務として使途不明金の使い道なんかを尋ねている時間なのに、僕は今日も仕事を休んで工業地帯のだだっ広い道を走っていた。
 もちろん、自分の足ではなく車で走ってる。
〝ほどほどにしろよ、黒桐?と言った橙子さんの忠告は、あいにくとまだ効果を発揮していない。
 昨夜も殺人鬼の被害者は出てしまった。
 ……忘れもしない。昨夜の被害者が発見された場所は、四年前に一番初めの被害者が出た路地裏でもある。
 ほとんどただの偶然かもしれないけど、その事実は事態が取り返しのつかない方向に転がり始めているような証に思えた。
 事は、もう一刻の猶予もない。
 昨日、売人さんのアパートから調べ始めて丸一日。ブラッドチップという新種の麻薬を扱っている売人の住みかが港付近のアパートにあるとつきとめて、黒桐幹也はその隠れ家に向かっていた。
 港に近付けば近付くほど、すれ違う車はトラックばかりになっていく。
 灰色の空の下、やっぱり灰色に濁った海を大きく迂回して工業地帯を走っていく。
 ……去年の夏、ブロードブリッジと名付けられた橋があった。建造途中、台風によってほぼ全壊したとされる大橋。建設再開のめどはまだ立っていない。
 売人のアパートは、そのブロードブリッジが見渡せる海辺にあった。
 車から降りて、潮を含んだ風を受ける。
 冬の海は冷たく、風も氷みたいに肌を凍えさせた。
 人気のない港は街中より何十倍も肌寒い。
 無数に建つ倉庫を横目に、目的のアパートを目指す。
 アパートは潮にやられているのか、外見はボロボロだった。もう、廃嘘としかとれない二階建ての木造のアパート。
 売人はそのアパートを借りているのではなく、アパート自体が売人の持ち物らしい。四年前まで荒耶《あらや》という人物が持ち主だった物件。……そういった意味では、売人の住みかを発見するのは簡単だった。
 六部屋しかないアパートの扉を全部ノックして留守を確かめる。少し悩んでから、二階の隅の部屋に忍び込む事にした。
 築三十年を超えるアパートの部屋の鍵は、ドライバー一本で簡単に破壊できた。……まったく、我ながらものすごい暴走ぶりだと思う。でも今は世間体を気にしている場合じゃなかった。
「ビンゴ、かな」
 玄関から台所に入って、そんな事を呟いた。
 部屋の作りは狭くて、玄関と台所は繋がっている。
 その奥に六畳一間の部屋があるだけ、という七十年代を象徴するような安アパート。
 ……部屋の様子は、昨日の売人の部屋とあまり大差ない。
 台所から覗ける奥の部屋は台風とサボテンが飛び込んだ後のようで、それこそ廃嘘みたいだった。
 カーテンをつけていない窓からは一面に海が見渡せる。
 ゴミが散らばった部屋の中で、その窓だけが取り付けられた美術品のように不釣り合いだ。
 ざざあん、という波の音さえ聴こえてきそうな、鉛色の海に通じている窓ガラス。
 それに引き込まれるように部屋の中へ入った。
「――――」
 ぞくり、とした。
 後頭部に血液が溜まって、そのまま後に倒れてしまいそうな感覚。
 それに耐えきって、僕は周りを見渡した。
 ……別段、何かを見つける為にやってきたんじゃない。
 この隠れ家に例のクスリのレシピがあったとしても、そんなものには興味もない。僕はただ、漠然と何か手がかりらしき物がほしかっただけだ。
 けれど、その必要はもうないのかもしれない。
「――式」
 呟いて、部屋に散らばった写真を手にとってみる。
 それは僕がまだ高校生だった頃の両儀式の写真だった。
 部屋に散らばっているものは写真だけじゃなく、キャンバスに描いた肖像画らしきものまである。
 数はあまりないけれど、この部屋には式をモチーフにしたモノで散らかっていた。年代は四年前の一九九五年から今まで。今年の一月、礼園女学院に仮転入した時の写真まで揃っている。
 部屋にはそれ以外の日用品は存在しない。
 両儀式という人物の残骸で埋め尽くされた、海の見える小さな部屋。
 ……これは、彼の体内だ。自分の部屋というものはその個入の世界を表している。けれどその装飾が自分というカラから溢れだしてしまった時、部屋は世界ではなくその人物の中身になるんだ。
 ゾクリ、と背筋に悪寒が走る。
 この部屋を形成した人物とは、話し合いは成立しないのかもしれない。なら――彼が帰ってくる前に僕は引き揚げるべきだろう。
 それが解っていても、僕はこの部屋の主と話をしたかった。いや……きっと、しなくちゃいけないのだと思う。
 そうして部屋に留まっていて、窓際の机の上に置かれた本に気がついた。
 緑色の背表紙の、おそらくは日記だろう。
 これみよがしに用意されたそれは、読まれる事を望んで置かれた物だった。

「……それがこの部屋の心臓ですか、先輩」
 日記を手に取る。
 書き手の思惑通り、僕はその禁断の箱を開けていた。



 どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 僕は式の写真がちりばめられた部屋に立ったまま、彼の日記の最後のぺージを読み終えた。
 この日記は、ある殺人の記録だった。
 四年前に起きた、事故のような殺人事件。事の発端は全てそこから生じたものだ。
 一度だけ深呼吸をして、僕は天井を仰いだ。
 日記は春から始まっていた。一番初めのぺージ、一番初めのくだりを、僕は完全に暗記してしまっている。
 この日記の主が一人の少女を初めて見た時の記録、彼の物語の発端。
 それは――――

「――一九九五年、四月。僕は彼女に出会った」